その優しさに触れなければ、こんなにも戸惑うことは無かった
その温かさを知らなければ、こんなにも苦しむことは無かった
でも、それをもう、無かったことには出来ないから

壊さない為には 離れるしかなくて
護る為には 傷付けなくてはならなくて
何故か騙すことは出来ず 突き放すしか出来なかった
それでも覚えていて欲しいと 愚かに思っている己がいる

嗚呼

謝罪の言葉などでは薄っぺらく、この想いを表すにも足りぬ
ただ、感謝と溢れんばかりのこの想いだけが
己の身を切り裂くように 埋め尽くすように
此処に未だ留まっている

己の名を呼んだ、泪交じりの彼の人の最後の声が蘇る

耳に残って、離れない

後生大事に抱え込んでいる、戯作本を開いた
浅ましいとは思えども、手放せぬのも事実
しかし、浅ましかろうと、愚かであろうと構わぬ
そう腹を括ったのも事実

どのみちこの痛みも、あの与えられた優しさも温もりも
陽だまりのような柔らかな時間も
忘れる事等、出来るはずも無いのだと
もう何年も前に男は吹っ切っている
これだけは、どうあったとて切り捨てることも出来ぬのだ

それならば、己の幕が引かれる迄
後生大事に抱えておけば好い
例え、己を嘲笑する材料にしか為らぬとしても

そう、構うものか

手の中には、擦り切れた戯作本
開けば、読みなれた――

そして、まるで壊れ物に触れるかのように

そっと戯作者の名を、指で、辿った








退廃的100のお題
071:二度と、戻れないなら
/巷説百物語