来 は 誰 の 元 に も 平 等 に 荒 野 何もない場所に立つ。 何もない場所と言う表現は、多分適切ではないのだろう。 既に役に立たない、コンクリートのガラクタ。 かつてはビルと呼ばれていたモノたちが、そびえていたり、倒れていたり、きちんとそこには存在している。 見渡す限りが、そんな感じだ。 しかし、雑然としているくせに、存在感なんてありはしない。 こういう場合は廃墟の群れとでも言うのだろうが、荒野と呼んだほうが近いと女は思う。 人々はこんな廃墟にステイタスを感じていたり、存在を感じていたりしていたのか。 しかし『場所』とはそういうものなのだろう。 足元にふと目をやる。 そこにも、コンクリートの破片。 目を細めると、ブーツの爪先で蹴り飛ばした。 ― なんにもありはしないさ。 これは報いなのだろうとも思う。 あの時ここにいた人間は、きっと信じられなかっただろう。 それまできっと、自分たちが造ったものが、崩れてきたときに自分たちを殺す凶器となるなんて思いもしないで。 むやみにヒトの居場所を主張し続けてきた、罪。 髪が乾いた風にゆれて、軍服がはためく。 風は饐えた、街の死んだ匂いがする気がした。 この匂いは嫌いだ。そして稀に記憶を呼び起こす、この死んだ街も。 思い出すのは失った、横にあって繋がっていたはずの、千切れたお互いの時間。 時間はもう戻らないと知っている。 失ったものはもう返らないと。 未だに胸に残る、やり場の無い想い。 だからただ、挑みかかるように廃墟を睨みつけて。 「お疲れ様です」 そんな時、不意にかけられた声。 くるりと振り返る。 よォと手をあげる赤茶けた髪の長身の男。 そしてまだ幼さを残した青年。 声をかけたのは青年ほうだろう。 あぁとだけ返事を返すと、長身の男がニヤリと口の端を持ち上げた。 「何か、あったかよ?」 「何も?」 男は多分、気付いているのだろう。 女はよくここに来ると、廃墟を睨みつける。 気付いても何も言わない。 いちいちムダに詮索しないこの男を、女は嫌いではない。 「そっちこそどうした?」 「や、何にも動きないしな。帰還命令が出たんで、お誘いにあがったってワケ」 「そうか、ありがとう」 ふと顔を緩めて、女は微笑んだ。 茶化すような言い方でも、イライラさせないのはこの男のすごいところだと思う。 重みを軽くできる、そんな人間だ。 入隊当時は、軽いヤツなのかもしれないとも思ったが。 明るさは天性のもので、気のいい、優しい男だと思う。 兵隊など上官には切り捨てられていくのが常なのに。 自分の部下のみならず、誰かが死んだと聞かされることなど、当たり前で。 何も語らないし、大げさに悲しむことも無い。 そうしていては、立ち行かないと知っているからだ。 しかし、どこか泣きそうな雰囲気が見て取れるのは、多分自分だけだろう。 いつだってこの男は、本心を隠すのが上手いのだ。 「そーいえばよう、おまえ、電信きてたぞ」 「電信?誰から?」 「うぅんとぉ、誰だったっけぇ?」 完全に茶化している。 頬に人差し指を当てるその姿に、青年がげんなりしたのが見えた。 「佐伯」 「ん?」 女は目を見つめてきっぱり言い切った。 「気持ちが悪い」 「…すんません」 しょんぼりする男を構うことなく、青年のほうに女は問い掛ける。 ブツブツと構ってくれたっていいじゃないかという声が聞こえたが、それもあえて無視した。 「浅木くん、電信の相手は?」 「桐沢一尉です。伝言で『ラブレター』だとお伝えしろと…」 「馬鹿だな」 明後日の方向を見て、声にうんざりとした色を濃く滲ませてボソリとそう呟く。 その姿を、青年が珍しそうな顔で見た。 女は、そのまま視線を動かさない。 視線の先には、果てない瓦礫の山。 「ま、それは車の中ででも見ろってことでさ。浅木くんや、ちょっと見てきてくれたまえよ」 「はい」 ふざけてそう告げる男に、やれやれと言った感じで青年は答える。 パタパタと、行ってしまう足音がした。 もう一人は…まだいる。 カチリと、ライターの音。 饐えた風に乗って、よく知る煙草の香りがした。 目を伏せる。 ― 悲しまないでくれと言うのは、無理だよ。 あの人の言葉を思い出す。 生きるにしろ、死ぬにしろ、未来は人間に平等にあるものだと。 だから、悲しむなと。 「久埼」 幾分か、真剣味と柔らかさを含んだ男の声が名前を呼んだ。 視線をそちらに移す。 「何も、ねぇな。あっこには」 「そうだな」 「あんのは人の心の中にだけだ」 「ああ」 「人のツケってぇのはでかかったんだな」 「…ん」 「そんでも生きてるヤツに明日は来るんだな」 「時間は過ぎるものだから」 いつか、自分だけが手に入れてしまった『明日』を空しく思わない日は来るんだろうか。 あの人がいなくなったとき、意地でも生きてやると思った。 だけど思い出すのだ。あの笑顔を。 癒されるのに、稀に胸が空になってしまったように、じくじくと痛む。 目の前の男に、いっそそう本音を言ってしまいたかったのに、声が出なかった。 また、風が吹いた。 「あー、オレこの風の匂いキライだ」 煙草を指にはさんだまま、男が笑った。 「死んだ匂いがする」 「何…?」 「なんつぅの、そんな感じがするってだけなんだけどさ」 「そう…」 廃墟を見ながら、男が呑気そうな声でそう漏らす。 この男にも思うところはあるのだろう。 こんな時代を生きている人間なら、誰でもそうなのかもしれないが。 こんな風に、柔らかく笑えるようになるまで、自分はどれくらいかかるのだろうか。 男が視界の端に部下の姿を見つけて、お、と声を上げた。 「行こうぜ、積み終わったみたいだぞ。浅木が手ェ振ってる」 男の声を聞きながら、もう一度廃墟に目をやった。 憎しみと、悔しさと、それ以上の悲しみと哀悼を込めて。 世界が文字通りに歪む結果となった、あの事件の傷跡を残す、この荒野に向けて。 そう時代の…墓標だ。 男の視線の先を見ると、青年がブンブンと手を振っているのが見えた。 「あいつ手ェ振って知らせるとか、横着なヤツだな。」 「隊長が隊長だからな」 「何、それ」 「そのままだろ」 「ひどくない?」 むくれながら、男が煙草の火をブーツの底で踏み潰した。 チラリと女のほうを非難がましい目で見つめると、ガシガシと頭を掻きながら歩き出す。 女はその様子を見て、うっすら微笑みながら、その後に続く。 いつか荒野の墓標に、花を手向けることのできる日はくるんだろうか。 手に入れた生きると言う未来に覚える罪悪感は、薄れるんだろうか。 今はまだ、わからない。 自分に今できることは、ここに在ることだから。 ただ、それだけなのだ。 饐えた風が最後にもう一度、髪を揺らした。 |