きっとそんなことを知らないまま




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 次の目的地に着くまで鳴り響く騒音。
 暗く密閉された地下に、奇妙に響いている。
 外を覗けば暗闇の中、残像がたなびいて。
 周りを見渡せば白い壁、白い天井、白い明かり。
 貼り付けられた謳い文句や、統一性の無い色。
 溢れる人の声にも、機械的なアナウンスにも、感慨深いものは無く。
 ただただ、がやがやと騒がしい。

 椅子に腰掛けたまま周囲に目をやれば、取り留めのない人の波だ。
 まるで壁のように人が目の前に立っているのが、やけに居心地が悪い。
 手にした文庫は、さっきからちっとも読み進まない。
 集中というものが人の中に霧散して消えているのか。

 次の目的地に着けば、扉が開いて人が外へと流れ出す。
 よくもまあ、こんな小さな箱に人が詰め込まれているものだと、いつも思う。
 この駅を過ぎてしまえば、後は人は減るばかりだ。
 天井に光る白色が、少し鈍くなったみたいだ。
 そんな風に感じたのは、先ほどまでの騒がしさが、薄れたからだろうか。

 訳も無くあからさまに溜息をついて、もう一度文庫に目を移せば、目の前にまた人の壁が立った。
 これだけ空いているのだから、あと一駅だろうと何だろうと座ればいいのにと思っていれば、聴き触りの良い柔らかい声が、頭の上から振ってきた。

「幸せ逃げるよ?」

 盛大だったね、と笑いながらその声は言った。
 誰だろうと思って顔をあげて見てみれば、楽しげな顔がこちらを見下ろしている。
 見たことはある…けれども、話したことの無い人。
 優しそうな瞳の色を楽しそうにして、こちらを見て笑う。
 でも、少しだけ違和感を感じる。

「隣、座ってもいい?」
「あ、うん、どうぞ」

 ああ、こんなに声の柔らかい人だったんだ、とか
 クラスの子が何か言ってたけど人気があるのもわかる気がするな、とか
 そんなことを取りとめも無く考えていると、横でまた楽しそうに笑う気配がした。

「何?」
「やぁ、話したこと無い人間に話し掛けられたら、もっとおどおどするタイプかなと思ったんだけど、そうでもなかったんだなと思って」
「まあ、びっくりしたけど…隣のクラスの人だよね?」
「ああ、知ってたんだ」
「目立つから」

 はっきりそう言えば、そうかなあ?と首をひねる。
 困ったようなそんな…普通のはずなのにそこにも違和感。

「理系クラスなのに、雰囲気が理系っぽくないもんね」
「そう?」
「うん」
「ふぅん…結構はっきり言う人なんだね」
「そう?」
「うん。クラスに居るときは、掴み所無い感じだけどね」
「…うそ」
「ほんと」

 にっこり笑うと、瞳の色がまた優しくなる。
 ああ、でもまた違和感。
 なんだろう?

「…どうして?」
「ん?」
「なんで話し掛けたの?話したこと無いのに」
「何となく。そっちのクラス、オレよく遊びに行くから見たことあったし。よく一緒の電車になってたし。気付いてなかったでしょ?」
「…知らなかったよ」
「あんま周りに誰が居るとか気にしないタイプっしょ?」

 くくくっと喉で笑う。
 柔らかそうな髪が、安っぽい白色を鈍く反射して。

― キレイな子…

 漠然とそんなことを思う。
 周りと何か一線違った、そんな雰囲気。
 多分目立つように感じるはそのせいだ。
 年相応のようで、何となく中身は大人なんじゃないかと思った。
 ただただ、漠然と、だけれど。

 その瞬間に、何が違和感なのかわかったような気がした。

「あ、オレ何か悪いこと言った?」

 突然黙ってしまったからか、少年が困ったような顔をして、こちらを覗き込んだ。
 ううんと首を振って少し笑うと、安心したように微笑む。

「あのさ」
「はい?」
「突然何なんですけど、本心見えないとか、良く言われない?」

 それか、人に対して秘密が多いとかさ。

 気を悪くしたなら謝るけど、と付け加えて顔を見れば、丸く見開かれた目。
 しかし、急に俯いたかと思えば、頭をがしがしと掻きはじめた。
 髪から僅かに覗く耳が赤い。

「…あー」

 絞るように出された声。
 よほど悪いことを言ってしまったのだろうかと、心配になる。
 困ったような瞳が、こちらを向いた。

「話したこと無いのに、どうしてそう思ったの?」
「なんとなく。作ってるわけじゃないんだろうけど、言えないこと抱えてそうな感じがした」

 ますます困ったような顔がこちらを見る。

「歯に衣着せないって言われない?」
「言われるね」
「勘がいいとかも言われない?」
「言われるね。ってことは事実なの、それ?」
「…さぁ?」

 困りつつも、楽しさを垣間見せながらニッコリと笑われた。

― クセモノくさいなあ

 変な子だと思って、思わず苦笑がもれた。
 自分も相手にそんな風に考えられているとは、ちっとも思わないで。

「折角ですからお友達になりませんか」
「なかなか、おもしろそうですね」
「俺の名前は―」
「知ってるよ。あたしは―」
「知ってる。」

 よろしくと笑って、少年は立ち上がる。

「じゃあ、またね」

 ひらひらと手を振って、扉が開くと少年がひらりと飛び降りた。
 耳に響く電車の扉の閉まる合図。
 空気が抜ける音がして、扉が閉まった。
 首を後ろに捻って窓の外を見てみれば、笑って少年が手を振っている。
 ちょっと微笑むと、手を振りかえした。

 進みだす電車。
 遠くなっていく人影。

 それは何となく、今の自分と彼の距離だとふと思う。
 人好きのする人間なのに、覆われた『何か』が多すぎるような。
 見てばかりで見せないというのは、苦しくないのだろうか。

 違和感の正体は、奥に隠れた悲しさとか、隠すものの大きさだ。

 他に、あんな目をする人を見たことが無くて。
 奥に隠れたものの痛みは、酷く大きいんじゃないかと思えて。

 あるともないとも言えないで、抱えていくものは大きくなって。
 それはいつしか根を張るように、心の中に住み着くのだ。

 勝手な思い込みかもしれないとわかってはいるけれど、あながち外れていないだろうと確信していた。

 嗚呼、きっとそんな心を味わったりしないで。
 彼のような心の動きを知らないまま、自分は大人になるんだろう。

 そんな心とは無縁のまま、大人になっていくんだ。

 今まで話したことも無くて、ちっとも知らないのに
 同じ年のあの少年を想って

 何だか酷く、悲しくなってしまった

 膝の上の文庫本に視線を落とす。
 開いていたページを閉じた。
 あの子の痛みが、少しでも無くなればいいと

 まだほとんど知らぬ少年への願いを、少しだけ抱えて。









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038:地下鉄