『ちゃんと、生きなさい』

安らかに笑ったその顔を
繰り返し、繰り返し




忘 却 不 可 能 な 夢  虚 偽 の 眠 り




 目を覚ます。
 不愉快なほどに生温い空気を吸い込んだ。
 生温いうえに、体に絡みつくようにベタベタする。
 伸びた髪が首筋に当たる。
 ベタついていて、少しだけ気持ちが悪い。

 眠れない。

 不愉快な気候の所為?

― チガウ

 男は瞬時に判断する。眠れないのはその所為じゃない。
 たった今、見た夢の所為だ。
 記憶の欠片。
 しかし欠片と呼ぶには大きいかもしれない。
 それはこの空気のように生温く、この体を包んで離れない。

 忘れられる日は来るのか?

 答えはノー、だ。

 多分、その記憶にしがみついているのは自分自身なのだと、男は気付いている。
 この世界に執着なんてないくせに、ただただ、そんな自分が忌まわしい。

 ただ、だらだらと生き延びて。

 もしも自分が彼女のために生き延びると心の奥底で考えているならば、お笑い種だと男はそう思う。
 だけど自分の気持ちすら、もう判らない。
 ベッドから起き上がって、ベッド脇からコップを取り上げる。
 生温い水を喉の奥に流し込む。

『不器用だね』

 そう言って苦笑した彼女の顔を思い出す。
 酷く衝撃を受けたあの言葉は、多分一生忘れられない。
 彼女は意外なほどに、壁を張り巡らせた自分の内側に浸透して。
  きっと、どんな形であれ繋がりは切れないと、そう思っていたのに。

― クソ…

 とりとめない、とめどない感情に、飲み込まれてしまいそうだ。
  こんなとき、男は自分にスイッチがついていたらいいと思う。
 記憶の回路を、シャットダウンしてしまえるスイッチが。

― アホらしい…

 シャットダウンできればいいと思うくせに、消去することはできない。
 自分で自分が浅ましいと思う。
 後悔を抱えてでも、結局は忘れたくない、だなんて。

 額に掌をあてる。あたたかい。
 耳を澄まして、自分の体の中へ意識を集中すれば聞こえてくる鼓動。
 規則的な呼吸。
 まだ、生きている。
 嗚呼。
 どうして自分が生き延びたのか。
 唯一、失いたくないと思ったものは簡単に手の中からすり抜けていったのに。

 ベッドに体を沈めた。

― 眠れるわけない

 きっとあの時から、自分に安らかな眠りは許されていないのだ。
 体の内側は、もう空洞も同然で。
  そう、がらんどうの、ガラクタ。
 何かに蝕まれる体の内側。
 それを支えているのは、何だ。

 男の口の端が吊り上がる。

― ブザマ

 男は素直に自分をそう評す。
 此処に欲しいモノなど、辿り着けるわけもない。
 それでも欲しいと思う。心の底から。
 それでも生きているという自分が、酷く無様だと思う。
 楔のように打ち込まれた過去に、浸っている自分が。

 腕で目を被った。
 安らかな眠りなんて望めない。望んでは、いけない。
 ただ、体力を回復するために眠ればいい。

 だらだらと、生き延びるために。
 それは、続く

 夢を
 安らかに笑ったあの顔を
  繰り返し、繰り返し
  瞼の裏に見て

 それはまるで生温い空気のように、そこに存在していくんだ。





079:INSOMNIA
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