過去に縛られるよりは、何も無い明日のほうが希望が見える気がした。




けれど答えて欲しい声は、もうここには無いから。













届 か ぬ 昔 日 の あ な た へ













女は簡素な、小さな石を目の前にして表情も無く立っていた。


つとしゃがむと石に手を伸ばし、彫られた名前をそっと指でなぞる。




「…多分、お墓なんて要らなかった…ね」




だから花は持ってこなかったよ。



いつもここに来ると、そうやってわずかに掠れた声で優しく呟く。


ここに眠っている人は、自分の生きた跡を残すことを望んでいなかっただろう。

あの時の自分は子どもだったけれど、それを濃厚に感じ取っていた。

他の人間は多分、ほとんど気付いてなんていなかったけれど。



あの人は、この世界に留まることを望んでいなかったから。



光の似合う人だったけれど、何にも執着のない人。

いつだって笑っていたけれど、求めるもののない人。

寂しさや辛さで心が飽和していたのかもしれない。

それでも、自分のことをとても大事にしてくれたから。

兄に抱くような好意を持つには、それだけで充分足りた。



共に生きることを、いきなり千切られる日が来るなんて思わなかった。

だけど本人は、その日をどこかで望んでいたから。

いつか「オレが死んでも悲しまないでくれよ」と冗談めかして言ったことがあった。

冗談めかしていたけれど、本音なんだとすぐにわかって。

胸騒ぎがしたのを覚えている。

きっと、その日が近いことを知っていたんだろう。

それでもただ、自分のやりきれないココロだけが、いつまでも残る。



「同僚に、煙草貰ったんだ。いつも吸ってたやつ」



語りかけても聞こえないのは知っている。

無駄でも、そうしたかった。



傷だらけの、それでいて装飾のきれいなライターと煙草をポケットから取り出す。



「新品の箱ごと貰ったんだ」


苦笑して、そう語りかける。

一本でいいと言うのに、半ば無理矢理箱ごと押し付けられた煙草。

何か悟るところがあったらしいが、何も言わなかった男の顔を思い出す。



あの頃と何も変わっていない、煙草のパッケージ。



煙草を取り出し、それに火をつける。

紫煙と、嗅ぎなれた苦い香りが漂った。

墓標の前にそれを置くと、何かを遮るように目を閉じた。



「ほんとは」



本当は…そう、本当は



「今だって」



もう言葉も交わせないだなんて、信じたくも無いのに。



事実は、いつだって残酷だ。



瞳を開ければ、じりじりと、赤い光が侵食しているのが見えた。



自分が彼に縛られることを、望まないのを知っている。

全ての証を消したいような人だから、自分が覚えていることも望まないかもしれない。

残るなんてガラじゃないと、笑うかもしれない。




それでも




― 大切だったんだ




手を伸ばして、冷たい墓石に触れた。

この下に眠っている、兄のような人の名前がそれには刻まれている。

名を残すことを本人は望んでいなかっただろう。

それでも、それに反してこの証を残したのはただのエゴだ。

自分が死んだときに、もし彼に会えたら、きっと文句を言われるに違いない。



何もかもがもう届かない。


全てはもう過去に消えていったから。



あの人の止まってしまった時間。

自分の動いていく時間。

どちらにしても、もう戻らない。



だから



わずかな繋がりをこの小さな石に刻み付けた。



もう一本煙草に火をつけて、箱と共に墓標の前に。

そしてポケットから、手にもっているのとは別のライターを取り出して置いた。





「煙草とライター、置いてく。」





イヤだろうけど、こっちのライターは私が死ぬまで持ってるよ。





墓碑銘をなぞりながら、わずかに女は笑った。






一陣の風が吹いて、懐かしい匂いが身を包む。





刹那








『しょうがねぇヤツだな』








ふとそんな











苦笑交じりの声が、聞こえたような気がした

















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098:墓碑銘