その日はほのかな、花の馨りのする日だった。














薄  桃  春  馨












「あ。」


廊下の向こうからやってくる人物を見て、長沢環大尉が声を上げた。
長沢大尉の視線が向かっているであろう方向に、その場にいたリッターは皆、自然と視線を向ける。
全員が全員、そこにいる人物を確認し一瞬驚いた顔をしたものの、リッターたちの顔が見る間に驚きから喜びに変わった。



「貴官ら、久しぶりだな。」



丸い眼鏡の向こうから、優しく見つめる眼差し。



「鳴海少将!!!!!!!」
「お久しぶりです!」
「今日元帥府にいらっしゃるなんて、思っても見ませんでした!」
「今日は柊生元帥にご報告することがあってな。」

口々にそういうリッターたちの言葉に、嬉しそうに目を細めると、鳴海少将は笑った。
ぐるりと全員の顔をしばし見渡す。
ニコニコとしているリッターの顔つきを見て、鳴海少将も笑みをニッコリとしたものに変える。


「それにしても、みんな元気そうで何よりだ。」


確かに一度ライヒスリッターを離れた後、現在は復帰し、度々こちらに足を運んではくれるが、皇帝陛下付きの鳴海少将に、毎日のように元帥府へ!というのは無理な話だ。
それはリッター達全員が納得し、理解もしている。
しかしそれでも、温かく包んでくれるような鳴海少将が激務外に久方ぶりに訪れれば、リッター達にしてみたら、それはちょっとした嬉しい騒ぎなのだ。

パタパタと聞こえる足音。目線をそちらに向けると誰かやはり駆けてくるようだった。
その場にいたリッター達が、おもむろに敬礼をし出す。


「鳴海少将!」
「おぉ、草薙大佐。」
「お元気そうで何よりでございます!」
「貴官もな。」


足をとめて、高潮した頬でニッコリと敬礼しながら笑う姿は、まるで少年のように無邪気だが、復帰した時はしばらく自分の見ぬまに青年に成長しているのを見て驚いたものだ。
歳月というものは流れるものなんだなと、妙に感心して柊生元帥に「じじくさいな」と笑われたのだけれど。


「鳴海少将、今日は…」


草薙大佐が言いかけたところで、ものすごい足音がした。
まるでイノシシでも走ってくるような。
その時、廊下の角から黒いものが飛び出してきた。それは明らかにこちらに向かって直進してきている。

…元帥府が揺れているように感じるのは間違いではあるまい。

草薙大佐の眉間に、しわが寄っている。どうやら心当たりがあるようだ。
他のリッターも、オロオロしたり、青ざめていたり、遠い目をしているということは心当たりがあるのだろう。
そんな鳴海少将も、何となく予想はついていた。


「とぅっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!」


突進してきたそれが、掛け声と共に跳び上がる。
草薙大佐もそれが跳び上がる瞬間に声を張り上げた。


「みんなっ、避けろっっっっっっ!!!!!!!!!!!!」


何がなんだかわからぬままに、鳴海少将は廊下の壁にへばりついた。
他のリッター達も、散り散りに逃げ出す。
飛び上がった人物が約2名ほどを巻き込んで落下すると、ぐしゃり…という不吉な音がした。
金髪と、赤い髪が、サングラスをかけてヒゲを生やした人物によって、見事なまでにクッションにされていたのは言うまでも無いだろう。


「何故避ける、草薙大佐!貴官を仕留めたかったのに!」
「立花大将のやりそうなことは大体分かります!大体なんで小官がここにいるって分かったんですか!」
「それは違うぞ、草薙大佐。貴官の姿が見えたから私は攻撃を仕掛けたのだ。」
「自慢気に言わないで下さいよ、迷惑です!」


明らかに間違った抗議をする立花大将に、草薙大佐が突っ込む。
立花大将が渋い顔をしてスクッと立ち上がる。
その際、「ウエッ」とか「グハッ」とかいううめき声は、もう聞こえていない。


「全く、上官に対する口の利き方が最近なっとらんな、草薙大佐!」
「上官として恥じぬ行動をして下さい、立花大将は。」
「何を!?」
「何ですか!?」
「はいはい、そこまでそこまで。」


喧嘩腰になる2人を、鳴海少将がおっとり止めに入る。
まだ「がるるるる…」と言い合いだしそうな2人を交互に見やって、鳴海少将は溜息をついた。
この2人が喧嘩をし出すと、たちが悪い。2人ともあたり一体かまわずやる傾向があるので、下士官達が非常に気の毒だ。


「ほら、立花大将。加納と風間を踏んづけたままですよ。」
「おぉ、貴官ら、いたのか。」


無責任なほどにのんびりした声でいう立花大将の下から、秋山少佐と長沢大尉と武藤中尉が2人を引っ張り出す。


「ああっ、加納中佐が白目剥いてますーっ!」
「風間少佐は泡吹いてますっ!」
「医務室に連れて行ってあげなさい…。」
「ハーッ!」


3人が2人を引きずって廊下の向こうに消えていくのを、鳴海少将は疲れた面持ちで見送った。
全く、来て5分もたたないうちにこんな騒動に見舞われるとは思わなかった。


…原因はただ一人だけども。


「いけませんよ、立花大将。あんまりいじめちゃ。」
「教育だ!」
「しつけも度を越すと逆効果ですからね?」
「気をつけよう!」


わかっているのだか、いないのだか。
力強く言い切られてしまっては、もう何も言えない。


「時に鳴海少将。」


キラリと立花大将のサングラスが光った。


「なんでしょう?」
「私は何か用があったはずなのだが、何だったと思う?」
「えぇ?小官に聞かれましてもねえ…。誰かに用があったのですか?」
「…あぁっ、そうだ!草薙、定光寺中将が探していたぞ!」
「早く言って下さいよ、そういうことは!」
「全く、貴官は最近態度が悪いぞ!」
「ほらほら、早く行きなさい。2人とも。」


またにらみ合う2人を制し、苦笑して背中を押してやる。
立花大将と草薙大佐は、フンッと鼻息も荒く、お互いに顔をそむけた。


「それでは失礼します、鳴海少将。」
「またな、鳴海少将。」
「はい。また。」


立花大将と草薙大佐が歩き出し、廊下の曲がり角に消えていくのを見て、鳴海少将は安堵の溜息をついた…が、その数秒後に2人の怒鳴り声が響いてきたのは言うまでも、ない。
やっぱり、安堵の溜息をつくのはまだまだ先のこと…むしろ絶対無いかもしれない。
ふぅと苦笑して息を漏らすと、元帥の執務室に向かって歩き始める。


― まあ、元気なことはイイコトだ。


そう思うことにした。
廊下を歩いていると、ほんのり花の馨りが漂ってくる。
中庭に何か花でも咲いたのだろうか。
そんなことを思いながら、執務室の前にたどり着くが、扉の前には先客がいた。


「おや。」


執務室の扉の前にたたずむ一人の青年。
線の細い、肌の白くて、黒く長い髪。


「有馬大尉?」
「あ、鳴海少将…。」


軽く目を見開いて敬礼をする…のだが、片手に抱えたモノが邪魔して、上手く敬礼ができていない。
何を持っているのだろうかと見てみると、桃の花のついた枝だ。
枝を見てから有馬大尉の方に目を向けると、黒の髪に薄桃が映えている。不思議な雰囲気を持つ有馬大尉にはどこか似合うなと、鳴海少将は目を細めた。
廊下を歩いていて漂ってきた馨りは、多分この馨りだったのだろう。


「どうかしたのか?」
「柊生元帥に、これをお届けしようかと思ったのですが…執務室にいらっしゃらないようで。」
「いらっしゃらないのか?」
「はい。」


執務室のドアに手をかけると、カチャリと音がして、扉が開いた。
どうやら柊生元帥は鍵をかけずに出かけてしまったらしい。


「鍵をかけていらっしゃらないということは、すぐ戻られるのではないかな。」
「では、花を生けて行っても構わないでしょうか?」
「ああ、きっとお喜びになるだろう。」


微笑むと、ホッとした顔をして―よく見ていないとわからないのだが―有馬大尉は花瓶に花を生ける。
ふわりと、桃の花の馨りが執務室に漂う。
窓が開けたままで、止めていた部分が外れてしまったのだろう、カーテンがバサバサと舞い上がっている。
それを一括りにまとめて止めると、鳴海少将は窓をほんの少しだけ閉めた。


「鳴海少将。」


有馬大尉の声に振り向くと、枝を一本持って有馬大尉が佇んでいる。


「これ、よろしければどうぞ。」
「頂いてもいいのかな?」
「はい。」
「ありがとう。」


差し出された枝を受け取ると、笑ってそう言う。
はにかんだように有馬大尉が目を伏せた。
リッターたちの中でも、一風変わった雰囲気をもつこの青年が、鳴海少将は嫌いではない。
あまり話さないからといって、礼儀正しくないわけは決してなく、また配慮が足りないわけでもない。
多分他のリッター達と、別のところで不器用なだけなのだろう。
他の若いリッターを思い浮かべながら、心の中で鳴海少将は笑う。


「私はここで柊生元帥を待たせてもらうのだが、貴官はどうする?待つか?」
「いえ、小官はこれで。所用がありますので…。」
「そうか。ご苦労だな。」
「いえ。失礼します。」


ほんのり笑って敬礼する有馬大尉に、鳴海少将も笑いかけた。
扉から出て行く際に、ぺこりと頭を下げる。普通なら敬礼のはずなのだが、有馬大尉がそうすると、違和感なく馴染むのが不思議だと思う。
それでも、きっと彼なりの精一杯というのがわかって、鳴海少将は嬉しかった。


手に持った桃の枝を温かい気持ちで見ると、元帥の机の上に目をやる。
小さな薄桃がいくつも揺れて、よい馨りを漂わせて。
たったそれだけなのだけれど、春らしさが執務室の中に溢れていた。


これを見たらきっと、柊生元帥は何でもない振りをして微笑むのだろうなというのが今から目に浮かんだ。


にこにこしながら桃の枝を眺める。



カチャリと扉の開く音がした。





「おぉ、鳴海少将!」
「お久しぶりでございます。」







その日はほのかに花の馨りがして






春の面影が見えはじめた一室で、薄桃がどこか嬉しそうに揺れていた。