パープリシュライン


 ぷかり。
 大きく口を開けて、円になった煙を吐き出した。
 雲とよく似た色。でも、少し紫がかって、澱んだ色だ。
― 不味…
 こんな現場を友人が見たら、不味いのなら止せと言うだろうか。それとも、テニスを続けたいのならそんなもん吸うなとか、これ以上無いくらい、苦い顔で言うんだろうか。
 想像して、ヘラリと笑う。
 煙草を吸ってる自分じゃなくて、吸っていない友人のほうが苦い顔をしそうだなんて。
 実際、彼がこの現場に居合わせたら、きっと自分の想像通りになるだろう。自分は不味くたって、平気な顔ができる。でも彼はきっと、世界一苦い、不快そうな顔をするんだ。
 だから、少ぅし。少しだけ、可笑しい。
 ふー。
 今度は口を窄めて、長く吐き出した。すぐに薄れて、空気に、青空に混じる。そこにあるのは、残り香だけ。
 じゃり。
 アスファルトの、擦れる音がした。
 この場所を知っているのは、自分を含めて僅かしかいないはずだから、鷹を括ってのろのろと振り返る――が、予想していた顔のどれにも、その人物の顔は当てはまらなかった。ただ、顔だけはよく知っている人間だっただけで。
 しかし、きっと自分が喫煙しているところを見ても、誰にも言いはしないだろうという予感があった。確信できる、確証も無いのに。
 それでも、信じることのできる予感だったから、火を消すどころかそのままで、ヘラリと笑って見せた。
「めずらしー人が来たね」
 そう言えば、ゆっくり優しく笑う。
 おいしい?そう聞かれて、一瞬何のことかわからず、首をひねる。
 緩やかに視線を手元に向けられて、ようやく理解した。
 すげー不味いのなんのって。けたけた笑って答えれば、相手の目が、楽しそうに細くなった。自分に向けられた顔の中で、一番偽りの無い顔だったように思う。
だからつい、1本、薦めてみたくなった。
 どれだけ不味いか、試してみる?と。
 彼は悪戯っぽく目を光らせると、じゃあ試してみようかな――そう言って箱の中身を1本抜き取った。
 断るだろう。そう、思ってたのに。
 誰の目でも引きそうな相貌。人当たりのよさそうな物腰。勉強の方だってかなりイイ成績で、どこからどう見ても、非の付け所のない優等生。
 意外だ。素直に思った。
 何でもかんでも、適当に流せるイメージがあったのに。敢えて誘いに乗る、だなんて。
― オモシロイ
 ライターを差し出す。しなやかな指がそれを取ると、口に咥えた白い棒に火をつけた。物の焼ける、匂いがする。
 彼の口から吐き出された煙は、自分の吐き出したものと同じように白いようで、澱んでいた。
 煙草を吸う姿に、何かが引っかかる。何だろう。
― そうか
 違和感ではなくて、寧ろその逆。
「実はさ、ちょっと手馴れてない?」
 ニヤリ。窺うようにそう言えば、先程と変わらない穏やかな笑み。
「バレた?」
「吸い方が、吸ったことある奴の吸い方って感じ」
 くすくすと笑って、自分の隣に彼は腰掛ける。同じ、匂いがした。
「不味いよね」
「でも吸うわけ?」
「そう言う自分は?」
「オレ、今日が初体験だもんね」
「そう。オレは…何回目だろ。あんまり吸ってはないけど」
 底の見えない笑い方をする時がたまにあったけれど、今そのそぶりは全く無い。ただただ穏やかに、こちらを向いていた目を、煙草の燃えている先に移す。
 不味いね。またそう言って、笑った。
 そこに一瞬見えたのは、同じ年からぬ、大人びた表情。
「吸ったら、どんどん体の中汚れるんだよね、これって」
「だろーねぇ」
「じゃあさ――」
 視線は煙のゆらゆらと立ち上る、そこから動かない。
「元から汚れてたら、汚れていくのと混じって、元のは判らなくなるのかな」
 いっそ無感情なほど穏やかに、優しく、何気なく。
 だからその一言は、まるで煙草の煙と同じように薄れて、空気と混じったようだった。
 彼自身も、それによく似ている。
 あの雲と同じような白い色で。そして、煙と同じように、真っ白にはなれずに。
 空気に、青空に混じるみたいに、透明に。それでもなれない理由は一つ。
 煙と同じように、苦い、残り香。それは隠し切れない、一片の心。
 彼を見る。目が合った。その目は、とても穏やかで。
 だからちょっとだけ笑って。おどけるように肩をすくめて、言った。

「わっかんね」