掌が掴んだ手首との接着面が、ひどく熱いような冷たいような、不思議な感覚がする。
 自分のものではない体温を、自分は今、手にしている。
 どうして、こうなったのだったか。
 相手を見れば、見えるのは不愉快そうで居て表情の無い顔と、その下のコンクリートの床。
 埃っぽい臭いにコンクリートの湿っぽい臭いが、鼻につく。
 喉が張り付いているみたいに、渇いている。
 焼け付くような、それで居て寒いものが這うような感覚が背筋を這う。
 嗚呼。焦っている。どうしようもなく。
 無表情の相手に何とか笑って見せたけれど、きっとひどく不恰好だっただろう。
 どうしようもない。どうしようも。

「どうしたらイイ?」

 静かな部屋に、異様なほど小さな声が響いた。
 背筋が寒い。体が熱い。
 カラカラする口を開いて、やっと出した言葉がこれじゃあ間が抜けてると思った。
 今相手を拘束しているのは自分なのに。

「聞くな」

 呆れた顔で彼は僅かに呆れた顔で、そう吐き出した。
 ああそう、まったく、その通りだ。
 それでいい、甘やかすな。身勝手な願い。

「お前がほぼ馬乗りになってるから、オレは身動き取れないんだぞ。オレこそどうしたらいいんだよ」

 冗談めかして、けれど真面目腐ってそう言うから――笑ってしまった。
 まだまだ、笑顔なんて呼べるものじゃあなかったんだろうけれど。

(振り払えばいい)

 この手を振り払ってしまって、この体を突き飛ばしてしまえばいい。
 そう思う。傷つけてくれればいいんだ、と。
 なのに、彼との間にヒビが入ることを、自分はひどく恐れている。
 両極端な位置に居る感情に、自分がついていけていない。

「…どうしよ」
「知らね」

 甘やかさない言葉。それでいい。
 でも、許してくれている。それがとてもよく判って。いつも、そうだ。だから。
 救われてしまう。
 手首を掴んだまま、額を胸へ押し当てた。ざらざらした布地の感触。仄かな体温。心臓の音。
 そうしていなくちゃ、泣いてしまいそうで。
 緩んだ掌から抜け出した片手が、わしわしと髪の毛をかき混ぜた。
 その手は彼の心と同じに大きく、彼の心と同じに温かい。
 喉が、ひりひりした。

「そろそろ離れろ」
「――このまま襲うってのもありじゃね?」
「する気もねぇくせに。この嘘つきめ。はよどけ」

 どけという言葉と同時進行で、べりと蹴り剥がされた。
 コンクリートは頭が痛い。言いながら彼は立ち上がって、服をはたく。
 彼は表情を変えないまま、自分を見た。一瞬身が竦む。
 でも、射抜くような目が少しだけ緩んで。

「ほれ」

 手を、差し出した。

「帰らねーの?」
「…帰、る」

 そう答えておずおずと手をとれば、彼はわずかに目じりを下げた。
 ぐい、と引かれて立ち上がる。
 ああ。
 傷つけろと、甘やかすなと、そう思っているのに。そうしてくれたほうが、きっといいのに。
 彼は必ずその手で掬い上げるのだ。
 どうしようもない自分も、この心も。
 繋いだ手の温度に、胸が張り裂けてしまいそうで。
 けど、その手の温度にひどく安心をしてしまう。
 何だか、まるで飼い慣らされているみたいだ。

「おまえって…」
「あ?」
「行こう」
「は?…おぅ」

 不審がる顔に向かって笑顔を飛ばして見せると、手を繋いだまま引っ張った。 ヒヒヒと笑ったら「何だよその笑い方」と彼も笑った。
 どうしようもない。どうしようもない。けど。
 焦燥感も、圧迫感も、胸から抜けやしないけれど。解決もしない、けど。
 だからこそ、このどうしようもない世界を抜け出してしまおう。
 どちらともなく笑い出して、そのまま走り出す。
 きっとこのままこの手をずっと離さなくても、彼はそれが当たり前だという顔をして、一緒に走ってくれるだろう。
 繋いだ掌が、頼もしくて。
 頼もしいからこそ、甘えてなんていられない。
 走れ。走れ。
 手に手をとって、この饐えた世界から遁走して、新しい世界を叩きつけるために。

 思い切り走って、だめだめな自分を飛び越えろ。