闇が足先に忍び寄ってくる。
 漆黒の手が、差し伸べられる。
 真白――いや、透明な彼女に。
 彼女が侵食されてしまうのが怖くて、彼は叫ぶ。
 あの無垢さが汚されるくらいなら、この喉が張り裂けるなんてどうでも良くて。
 汚すな。染めようとするな。近寄るな。

 そう叫んで、いつも目を覚ます。
 何度も何度も、繰り返し繰り返し見る夢。
 目を開いたその前に広がるのは闇。光はない、暗い部屋。
 べたつく首筋。額に張り付く髪。荒い呼吸が、体に響く。
 走ったわけでもないのに、ひどく汗をかいていた。
 夢だと気づいたすぐあとに胸に渦巻くのは、し慣れた後悔と後悔をする自分への自嘲と戒め。
 いつだってこの夢を見た後は頭の中がぐちゃぐちゃになっていて、ひどく動揺している。
 あの黒い手は何だ。あの恐ろしい光景は何だ。

 でも本当は、知っている。その正体を。
 おぞましい、あの手はそう――無明の闇のように真っ黒な手は自分の手だ。
 彼女を絡めとって、攫ってしまいたい。そう思っていた。
 自分の汚れた手が、自分の側ではないどこかへと、彼女を連れて行ってしまった。
 どうして彼女は近くにいない?何度も繰り返された問い。
 それは全て自分に与えられた罰だ。

 両の手で顔を覆う。
 額に触れた指先が、じんわりと水分をうつした。
 叫びだしたい衝動が、喉元まで競りあがる。
 本能で叫んでしまった後に訪れるのは、理性の崩壊。
 狂気に身を委ねてしまいたい。そうしたら楽になる。
 今まで何度そう思っただろう。何度、そうしてやろうと思っただろう。
 それを引き止めるのは、彼女の残した言葉。
 せめて、彼女の残した言葉を全うしたい。
 それが罪滅ぼしになるなら、この狂気に蓋ができる。

(ちがう)
 
 彼女の望むことなら、何でもしたかった。それだけだ。
 蓋をしたのは、自分の本心のほうなのに。
 もしかしなくても、それは歪な愛情がさせるのかもしれない。
 そんな狂気を愛情と呼んだら、彼女は嫌がるだろうか?

(笑う、かな)

 あの時のように「不器用だ」と優しく笑う声が、ひどく鮮やかに耳に蘇る。
 じくじく痛む心の中で、名前を呼ぶ彼女の声がゆっくりと沁みていく。
 瞼の裏で、緩やかに、その姿が。
 笑う。

(ねぇ?)

 残像に呼びかけても、答えなんてあるわけもないのに。
 乾いたような、湿ったような笑い声が体の中に響いて、部屋の暗闇へと溶けていった。
 このまま終わりに辿り着け。
 もうとっく自分の世界は死んでいるのに。
 終幕のあとの行き場所があるなら、もし叶うなら、その隣にイカせて。

(お願い、迎えに来てよ)

 今だけそう思うことを許してほしい。今は、己の狂気を待つ夢魔が隣に座っているから。
 次にきた目覚めのときにはなかったことに、忘れていることにするから。
 その夢をまた、繰り返すことになっても。
 歪んでいるのを知っているけれど、君への気持ちだから。それすら失いたくない。
 日が昇ったら――忘れたフリを。自分自身に嘘を。
 自分を騙さなければ、心どころか体も生きていられなくなる。
 目を閉じれば、いつしか向かう終幕に、その姿が手を差し伸べているような気がした。
 失いたくない。
 残像ですら、愛おしい。
 この気持ちすら過ちだということなんて、とっくの昔に気づいている。
 愚かで、捩れている。身勝手で、汚れている。
 ――それでも。
 君への想いも、君の笑顔も

 どうしても、殺せない。





狂気に抗いながら 終幕への夢を

いつだってきみが ぼくのなかには あふれすぎている